統べるもの

 ふと気づいた、抱え上げられた猫の私はこの前抱え上げた猫に他ならないと。
 つまりは時間軸は無意味なモノと言うと誤解を招くかもわからないがそれを違う見方をすると…。
 結局私は今いる私と以前の猫の記憶の私は同等であって今現在メイと名付けられた猫は私に他ならないと…。
 私は私の命を抱え上げているのか…。
 ではミスチルだって私だし、梅宮アンナだって私だと言う事ができるかもしれない。それではむちゃくちゃではないか…。
 そう、この世の全ては私という一個の命の変型に過ぎないと…。
 セクスする彼女も私であればつまり私は私とまぐわっているに過ぎないのだ。
 同じ職場の上司も私だし、極端に言えば私の友達も私の変化の一部に過ぎないのだ…。
 つまる所相手が私なら現在の私と同様な態度をとってしかるべきで、相手は私なのだからその為に、相手の為になることがすなわち私の為であるのではないか?
 ここで夏目漱石の「則天去私」と言う概念がここにまざまざと理解できる。
 そう天に則り私を去ると言うのは天に全てを任せるのでは無く、私という個人と他人との関係をはっきりと分けるのでは無く、私=他人であるという概念に辿り着くのではないだろうか…。