大島渚と日本

大島渚がテレビに出ていた頃、どのような映画作品を残しているのだろうかと気にはなったが見たいと希求することはなかった。

すべての職業が屈辱であると、大島は喝破する。そして屈辱の意識は苦痛にほかならない。映画監督にとって初期とは、この屈辱にいまだ塗れていない、稀有にして幸福な時期のことなのだ。初期が終焉を遂げたとき、彼は自問することを強いられる。なぜ、映画を撮り続けなければならないのかと。この問いに対して、撮りたいから撮るのだと答えることは、もはや許されない。というのもそのとき映画監督は映画を撮ることをすでに職業としてしまったためであり、あらゆる職業がそうであるように、それは屈辱以外の何物でもないためである。純粋な悦びのためにカメラを回し続けるエデンの園の時間は、終わりを告げてしまったのだ。              p76

純粋な悦びを保ち続けることが出来る職業というのは無いのだろうか?

「そうだ!君はヤクザ映画はつくれない。同じように私もヤクザ映画をつくれない。その君と私がどうしてヤクザ映画について論ずる必要があろう!」           p114

決して作らないのではない、作る条件がその属性に備わっていなければ作れないのである。

大島渚と日本

大島渚と日本


テレビで偶然観賞した『マックスモナムール』はコメディだと感じた
そして、それは失笑に近かった…