滅するかな衰

 今日は亡き父と曾祖母の法事。お寺の和尚が入院中の為そこの長女が来る事になった。うら若き乙女が唱える読経はなにかしら時代の流れと歌うように軽やかなお経が新鮮であった。
 彼女の髪はストレートで肩まで伸びている。言葉通り坊主とは坊主頭に象徴されるようにつるっとした頭を思い浮かべる。女性にとっては生活上でなにかと不便があろうが、やはり仏前では坊主頭が似合う。ま、イスラム教徒の私には関係無いといえばそれまでだが…。その女性の坊主頭を想像してなにかしら艶かしいような感じがした。
 こうして集まる親戚。死んだ者への追憶。三島由紀夫豊饒の海を思い出し。
 記憶と言っても映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せたり。或いは一つのものをバラバラに見せたりとまるで万華鏡のようなものだと。父が生きたという証は不確かなものだが現に皆の記憶に住みこうして寄り集まって記憶の吐露が幽かな過去に存在していた証明だろうと。しかし、それは記憶に過ぎず。なりより現世(うつしよ)に父の姿に似た私が父の存在していたという証明に他ならない気がした。
 そして今は滅して虚空であるか無か、または天国か地獄かにいる感覚を唯「衰」とだけ名付けよう。
 そう現在のコノ世を「盛」として今を我々は生きて行く他ないのだ。