温度の華

 疲れが最高潮に達していた。東京、新宮、新居浜とこの一週間でかなりの距離を移動した。
 たまらず温泉で療養しようと出かけた。私の好きな明恵峡温泉へと向かったが、たまには別の温泉もよかろうと思い清水のニ川温泉へと車を走らせた。
 ジャグジーとサウナは外せない。ジャグジーで体をほぐされ、サウナでムンムンと蒸され水風呂に飛び込み静かに何分か瞑想する。2回程、サウナ水風呂を繰り返しジャグジーの泡の消え去る様を眺めながら、モロッコの温泉を思い返していた。いや実際にはモロッコでは温泉には入ってはない。入ってない温泉を思い返すと言うのは不思議な話しだ。そうモロッコ滞在の最終日、次の日船がタンジェの港を出る。
 モロッコの旅行は辛かった、いや実際は辛く無い旅行というのは今迄全く無かったが…昼飯はもちろん夕食でさえ食うや食わずの日々であげくには沙漠を一日中這いずり回っていた日もあった。そしてここに辿り着き、海を隔てた向こうはもうヨーロッパはスペインだ。しかし、尚も挙げ句の果てに追い討ちをかけるかの様にタンジェの港の砂丘で駱駝を連れた老人にしつこく言い寄られ全く疲れ果てていた。たまらず、パリで会った友達からもらったモロッコのガイド本をめくりジャグジー付きのホテルへ最後くらいは奮発して泊まろうと決めていたにもかかわらず、そのホテルの前に着くと…廃虚であった。しかしホテルの中に人が居るようであったので、崩れかけのドアを開けると廃虚のホテルの中で、賭けトランプに熱中しているヤクザまがいの男達が目をギラギラさせながら一斉にこちらを見た。
 「あの、ここってホテルでは?」とおずおずと聞くと一番奥に座っていた老人が立ち上がり「潰れたよ」と一言。そして手をふって出ていけと合図した。
 結局ジャグジーとサウナはモロッコの沙漠の彼方へと蜃気楼のように消えていった。そんな、タンジェの妄想の温泉を思いだしながら、今度はロシアの雪の降る中のサウナや温泉を夢見ながら唯、つるつるの温泉卵の温かさと温泉の後の牛乳の冷たさの温度の違いを確かめた、そして自分の体温を37.2℃の朝に保つように。それが今できる全てだった。