蒐集行為としての芸術

小さい頃に集めたものはなんだったろう?
道の小石
キン肉マン消しゴム
ビックリマンシール

距離の感覚はあらゆるものに真性さを保証する。近くに存在しているものは退屈であり、遠くに存在しているものは希少であり、魅力に満ちている。ノスタルジアの根底にはニーチェの説く〈遠人愛〉が横たわっている。                                            p51

距離の思考
身近な者達ほど憎み合う確率が高い
相手を隣人に選んでないならなおさらだ
だが相手も選んで近くに来ていないなら憎しみ会うよりその一部でも理解していくようにするべきではないだろうか…

蒐集行為としての芸術

蒐集行為としての芸術

起源へ遡及し、事物がまさに始動しようとするその場所にいあわせたいという強烈な欲望。現在の荒廃と堕落を否定し、真性さと美が君臨していたはずの過去に身を委ねてしまいたいという頑強な意志。こうしたノスタルジアの力のさなかにあるとき、人はすぐれてイデオロギー的な存在に変わる。
 眼の前に存在している事物はもはやとるに足らぬ価値しか宿していない。万物は四散し、世界の隅々で今、悲惨に満ちた終焉を遂げようとしている。存在を統轄する理法は消滅し、記号を純粋なる意味内容へと結びつける紐帯は破損してしまった。われわれの前の宙空を力なく横切ってゆくのは、本来の場所を喪失してあてどなく漂泊してゆく、世界のおびただしい薄膜だけだ。愚痴、過失、罪悪、貧婪、そして悔恨と倦怠。『悪の華』のボードレールが十九世紀に数えあげたわれわれの不幸はいや増すことはあっても、いっかな去ろうとはしない。そして、こうした状況にあって、人は過去のある時間を理想化し、喪失された世界と現実との間の距離、隔たり、欠落に深く魅惑される。
 紅茶に浸したマドレーヌの極小の一片がプルーストの大長編の語り手をして、過去を想起する一大契機となり、タルコフスキーのフィルム『サクリファイス』の老人が自宅の庭に子供の手で設けられたミニアチュールの自宅を思いがけず発見して、核戦争によるヨーロッパ文明の崩壊に深いペシミスティックな感情を抱くように、ひとたびノスタルジアにとらわれた者は、ほんのささいな事物を契機として、莫大な喪失と欠落を手繰り寄せてしまう。いや、むしろ極小のミニアチュールゆえに、と訂正すべきかもしれない。きわめて小さいオブジェのなかには、かつて無垢と完璧を誇っていた世界の残滓が息づいているのだ。幼年時代に見失ってしまったささいな玩具や、たわいもない悪戯の戦利品が、世界に真性さと栄光を回復し、人をして過誤と悔恨から解放する契機を与えるのだ。『市民ケーン』の冒頭で大富豪が臨終の床で落としてしまうガラス玉と、彼が最後に口にする「薔薇の蕾」という謎めいた遺言とは、この間の力学を心憎いまでに描いているといえる。                           p54~55

今現在を生きることしかできない我々は大衆消費社会のさなかで
過去や別世界のノスタルジアに縋らないと生きていくのが困難なのだろうか…